便利屋さん

ご無沙汰しました。

 

遠方にいる兄が心筋梗塞で入院したり、息子家族が全員インフルエンザに罹ったり、主人が熱を出して寝込んだりと私以外の家族の不調が続き何かと忙しくしておりました。

 

兄のお見舞いにも行って来ました。

 

ようやく皆落ち着いたのでまたぼちぼち書いて行こうと思います。

 

 

実家の冷蔵庫の中身を片付け、開かない冷凍庫の扉を前にどうしようかと考えた末思い付いたのは、

「そうだ、便利屋さんに頼んでみよう」だった。

前の年の秋に実家の庭木を切ってもらった便利屋さんがとても親切で、

「何かあったらまたよろしく」

と名刺をもらっていたのを思い出したのだ。

 

電話をかけて状況を説明したらすぐに快諾してくれた。

 

良かった〜。

来てもらえる日を決めて電話を切った。

 

続きます。

 

 

 

 

 

 

 

開かない冷凍庫

意を決して開いた冷蔵庫の中身は思っていたよりは少なかった。

まずは冷蔵室から。

当たり前だが全滅しており、悪臭を放っていた。

マスクを二重にしても無理だった。

 

厚めのビニール袋を二重にしてどんどん詰めていく。

賞味期限が2年前の日付けどころかその前のものも入っていて驚いた。

 

次は冷凍庫だ。

えっ、

開かない!

 

力を込めて引っ張ってみるのだがびくともしない。

中で何かが発酵してガスが充満し、密閉状態にでもなったのだろうか?

ううう。

 

冷凍庫は一旦あきらめて一番下の野菜庫を開く。

ここもあまり入ってはいなかったが、元野菜だったであろう黒いものがいくつか入っていた。

通電中に乾燥したのか割とパサパサしていた。

 

瓶に入った調味料やご飯のお供などの中身を出して瓶を洗い、分別していった。

 

その日は車できていなかったため、集めたゴミを市の指定ゴミ袋に入れ、ブルーシートにくるんで庭の隅に置き、一旦作業を終えた。

 

この時点で居間以外の部屋はたくさんの物であふれたいわゆるゴミ屋敷状態だった。

 

続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冷蔵庫

中身の入った使えない冷蔵庫の事はもちろん分かっていた。

実家の電化製品はだいたいのものが長持ちする。

冷蔵庫もかれこれ20年は使っていたのではなかっただろうか。

さすがに壊れたようで、母からSOSが来たのは2年ほど前である。

 

本来ならば新しい冷蔵庫を購入し古い冷蔵庫を片付けて入れ替えるべきなのだが、実家の場合冷蔵庫を移動する動線が無かった。

搬入出来たのだから搬出も出来るはずなのだが、台所から出して居間を通って玄関に出すためには途中の床にある物を片付けなくてはならなかったのだ。

 

仕方がないのでその時は新しい冷蔵庫を購入し、玄関に置いた。

 

まだその頃母は台所を使って簡単な調理をしていたので、壊れた冷蔵庫の中身を出すのは母の役割だと私は心の中で思っていたのだった。

 

だが、わたしの考えは甘かった。

 

母は古い冷蔵庫の中身を片付ける気はなかったのだ。

 

最初のうちはまだ冷凍庫だけが壊れていただけだったので、コンセントも抜いていなかった。

たまに「冷蔵庫の中身どうした?」と聞いてみるのだが、母は「えへへ」と笑って誤魔化すのだった。

 

 

あれから2年、目の前にあるのは中身の入った

大型冷蔵庫。

コンセントを抜いたのはいつだったろう?

電気代がもったいない気がしてえいっと抜いたのだけは確かだ。

ヘルパーさんのおかげで冷蔵庫を運び出す動線は片付けられていた。

居間にある椅子を少し動かせば玄関から搬出は可能である。

 

台所の窓を開け、ゴム手袋をはめ、マスクを二重にして私はついに中身の片付けを開始した。

 

続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

実家

母の亡くなる前の様子を綴ってみたのですが、まだ早かったみたいで、少し辛くなってしまいました。

書いては消し書いては消しを繰り返していました。

 

そこでしばらくは空き家になった実家の話しを書いていこうと思います。

 

実家は私のマンションから高速を使うと30分、下道を使うと1時間、バスと電車を乗り継いで行くと1時間半かかる郊外にある。

 

母の在宅中にヘルパーさんの手を借りて片付けを開始していたのだが、6LDKの大きな家には荷物がたくさん詰まっていた。

築50年以上経過しており、一度も引っ越していないためありとあらゆるものが詰め込まれていた。

 

母が入院して1ヶ月半ほど経ってから久しぶりに1人でバスと電車を乗り継いで実家を訪れた。

 

入院して主がいなくなった時が片付けのチャンスなのだがなかなか足が向かなかったのだ。

 

母がいた時は開けたこともなかった窓を久しぶりに開け放った。

五月だったので気候もちょうど良かった。

庭には色々な花が咲いていた。

 

まずは冷蔵庫だ。

実家には冷蔵庫が4つあった。

 

稼働していたメインの冷蔵庫は母の入院後すぐに片付けて、食べられる物はマンションに運び空にして電源を抜いていた。

 

問題は残りの3つである。

2つは私が実家にいた頃からあった比較的小さなもので、洗面所にあった。

中には母が手作りしたジャムなどがびっしり詰まっていた。

もちろんもう食べられない。

だが瓶に入った物ばかりなのでほとんど匂いはなかった。

洗面所のドアはヘルパーさんがいる時に一度も開いた事がないので、ヘルパーさんもその存在を知らなかったはずだ。

 

最後の1つは母が2年前までメインで使っていた大型の冷蔵庫。

最初に冷凍庫が壊れ次に冷蔵庫も壊れたようだった。

中身は入ったままなんと2年も経過していた!

 

続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母の異変

昨年6月中旬から多少の変化はあったものの、母の老人ホームでの日々は穏やかに過ぎて行ったはずだった。

 

だが7月になり、母のリハビリパンツに突然謎の出血が見られたというケアマネジャーさんの知らせから、母の様子が急に変化した。

 

今年の夏は異常に暑かった事も影響したのだろう。

施設の食事をほとんど食べられなくなった。

体重はとうとう30キロを切ってしまった。

 

その日は母がずっと食べたがっていた鮪の刺身を持って部屋を訪ねた。

母は眠っていたので一旦仕舞おうと冷蔵庫を開けてみるといつもなら1週間でほぼ食べてしまうおやつがほとんど手をつけずに残されていた。

 

洗濯物を箪笥に仕舞ったり、使ったコップを洗ったりしていたらようやく目が覚めた母がにっこり笑い

「来てくれたの」

と言った。

そして爪を切って欲しいと言うので切り始めたのだが、切っている途中でまた眠ってしまった。

そんな事は初めてだった。

 

爪を切り終えると母は目を覚ました。

 

ポータブルトイレに座りたいので起こして欲しいと言う。

今までは一人で起きて移動が出来たのだが、もう起きられなくなってしまったのだった。

 

スタッフの手を借りて母をポータブルトイレに座らせたところにケアマネジャーさんが来たので一旦部屋を離れた。

 

ケアマネジャーさんと話しをして明日から毎日訪問看護師さんに来てもらい点滴で栄養を補う事にした。

 

部屋にもどると母はポータブルトイレに座ったままだった。

 

ケアマネジャーさんと一緒に母をベッドに戻しその日の訪問を終えた。

 

帰り際施設長に呼び止められた。

「会わせたい人がいたら連絡した方が良いと思います。」との事だった。

今までの経験から何となく分かるのだそうだ。

 

その日から亡くなるまではたったの5日間だった。

 

続きます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母のトイレ事情 続き

母は亡くなる4日前までポータブルトイレで用を足す事が出来た。

 

ポータブルトイレで用を足せるので母はしきりにリハビリパンツをやめて普通のショーツを履きたいと願っていた。

私に買ってきて欲しいもののメモに何度もショーツ3枚と書いていた。

でも、その願いを叶えてあげる事は出来なかった。

 

たまにだが失敗する事もあったからだ。

 

ここからはより深いシモの話しになるので、読みたくない方はストップして下さいね。

 

 

母は80代後半から少しずつ食欲が減少し、施設に入居した時は38キロほどだった。身長も縮んで145センチほど。

 

少しずつ歯が悪くなり、下の歯だけがポロポロ4本抜けて一年前に部分入れ歯になったのも食欲減退の理由だったようだ(上の歯は最後まで自分の歯だった)。

入れ歯にものが挟まる事を嫌がり施設で提供してくれる食事も完食する事は一度も無く、野菜など食物繊維のある物をちゃんと食べられなかったようだ。

そうなると大きい方の排泄が困難になる。

 

施設には訪問医、訪問看護師が来てくれていたので、下剤を使い排泄を促してくれた。

母の場合は液体の下剤を水に溶かして食後に他の薬と一緒に服用していたそうだ。

 

ちゃんと大きい方の排泄が出来ているかどうかは月に一度のケアマネジャーさんとのやり取りでその事を毎回確認していた。

 

下剤の服用が上手く行くと良いのだが、上手くいかないと当然失敗してしまう。

そんな訳で母のショーツを履きたいという願いは叶えられなかった。

 

そんな訳で時々失敗はあるものの順調に母の施設での生活は続いていた。

 

ところが今年の7月末、母のリハビリパンツに出血が見られたとケアマネジャーさんから連絡が来た。

 

続きます。

 

 

 

 

母のトイレ事情

母は91歳の4月に圧迫骨折で入院するまでちゃんと1人でトイレに行けていた。

 

救急で運ばれた病院で生まれて初めてオムツを身につける事になった。

 

入院中はコロナ禍だったため面会は出来なかったので、母に感想を聞く事はできなかったのだが、辛い思いをしたのだろうなと思う。

 

リハビリが出来る病院(いわゆる老人病院)に移ってからもそのままオムツを履いていた。

オムツと言ってもリハビリパンツである。

リハビリ病院では自力で排泄が出来るように力を貸して下さったようだ。

そのおかげで車椅子で看護師さんに連れて行ってもらいトイレに行けるようになったと聞いた時は嬉しかった。

リハビリパンツなので自分でちゃんと上げ下ろしが出来るのだ。

 

住居型老人ホームに移ってからもリハビリパンツは履いていたものの、昼間はちゃんとトイレで排泄ができていた。

ただいちいちスタッフの方をボタンで呼びベッドから車椅子に乗り換えて行かなくてはならないので大変だったと思う。

 

昼間はスタッフがたくさんいるが問題は夜である。

人手不足なのだろう、夜間はスタッフがたった一人なのだ。

3階建てのホームに入居者は24人。

1人でトイレに行ける方は良いのだが、母のように車椅子に乗らないと移動できない方もいる。

 

スタッフを呼ぶボタンを押しても間に合わない事が多かったらしい。

入所して1週間位経った頃施設長から朝方はシーツを濡らすほど漏れてしまうので、たくさん吸収するパッドを買って来て欲しいと言われた。

 

私はそこで初めてリハビリパンツにパッドを重ねる事で調整が出来ることを知った。

 

入所して1ヶ月経ちケアマネジャーさんの聴き取りがあった。

その時にスタッフの方から母が夜間20回もボタンを押した日があった事を初めて聞かされて驚いた。

1人しかないスタッフさんはさぞ大変だったろう。

 

昨年8月に入り母の施設のスタッフにコロナ患者が出てしまった。

家族はしばらくの間面会禁止になった。

 

2週間の面会禁止が解けて母に会いに行くと部屋に簡易トイレが置いてあった。

見た目は椅子のような作りになっている。

 

ベッドのすぐ横に設置されているので、母は1人で用を足せるようになっていた。

夜も1人で出来ているそうだ。

臭い消しの液体を入れているせいかほとんど臭わない。

すばらしい!!

 

続きます。